Masukアウルム地方にあるサリバン公爵家の別荘へ来て一週間が過ぎようとしていた。
気候の良いアウルムではもう、雪の残る所はなく、芽吹いた若い緑が眩しい程だ。
オルタナの為に用意された特別な部屋とは、薬草に関する書籍や古文書が所狭しと並ぶ一室だった。
拘束も解かれその部屋を私室として与えられ、普通に暮らしていた。
そう、普通だ。
「いや、おかしいだろ……」
目が覚めていつも思う。
ここで何をしているのだろうか?
この先、自分の身がどう扱われるのかも分からないのに、呑気に寝ている場合か、と。
だが、そのオルタナの心配を余所に公爵は休暇を楽しむべくのんびりと過ごしており、部下達も庭で稽古したり談話室で喋っていたり、と何の緊迫感も漂わせることはなかった。
時折、部下であるノエルやミレーが不在だったりはするが、果たしていつまでこんな状況なのかと不安を覚える。
オルタナは食事に呼ばれる以外、する事もないので部屋に置いてある本を片っ端から読んで時間を潰す。
そもそもついた初日の晩ですら、今思えば揶揄われたに過ぎなかった。
「な、何の御用ですか?」
湯浴みを済ませ夜も更けようかという頃に、公爵が一人でオルタナの部屋を訪ねて来たのだ。
ベッタリ張り付いているはずの部下二人はどこへ行ったのか。
「話がある。入れてくれ」
「……どうぞ」
薄い夜着を羽織っただけの公爵は、巷の淑女が見れば垂涎物の色気を垂れ流していたし、発情しない自分でさえ体が熱を持った様に感じる程だった。
何だか見てはいけないものが目の前にある感じで、視線の先が定まらない。
「こんなに簡単にαを部屋に入れて、危機感がなさすぎやしないか?」
「はっ?」
「お前は発情した事が無いらしいが、一応Ωなんだろう?」
オルタナは近づいて来た公爵に顔を寄せられ、目のやり場に困って顔を背けた。
「チッ……チンクシャな子供には欲情しないとおっしゃっ……た」
「まぁ、しないな」
近い。
今更だが、自分も夜着一枚の心許ない格好をしていたと気付く。
はだけそうになる胸元に長い指をかけられて、顔を寄せられるだけで微動だに出来なくなる。
「まぁ、そう怖がるな」
「こ、怖くは……ありません」
「そうか」
少し、嬉しそうに見えた。気のせいかもしれないけれど。
「お、お話とは何でしょうか?」
「お前、この古文書読めるのか?」
ベッドの縁に腰かけた公爵は、枕元に伏せて置いた読みかけの古文書を手に取り、そう聞いた。
「まぁ、分からない所もありますが、ある程度は……」
「博学だな。どこで覚えた?」
「……祖母が」
「ふぅん。他には? どんな事を教えられた?」
これは尋問なんだろうか? 素直に答えて、大丈夫か?
公爵が殺していないと言った自分の言葉を、どこまで信じているかなんて、未だに分からない。
ただ、こんな立派な部屋を与えて拘束すら解いて自由にさせていると言う現実だけが、疑いは晴れたと思わせるだけだ。
でも、彼は「お前を信じない事にしよう」そう言っていた。
「そんなに怯えるな。別に尋問しているつもりはない」
「……お、怯えてなんか」
「こっちへ来なさい。モリガン程ではないが、ここも夜はまだ冷える」
公爵は腰かけたその隣に来い、と片手でベッドを叩く。
意識するな。
発情しないんだから、間違いなんて起きない。
欲情しないって言われたじゃないか。
自意識過剰だ。
オルタナはそう自分に言い聞かせて、公爵の隣に躊躇いがちに腰かけた。
「ぶっ……学習しないな。安易に誘いに乗るなと言ったばかりなのに」
「へっ?」
「ふははっ、警戒心がないにも程があるだろ」
「何、言って……」
「そんなに無防備では、悪いαに食べられてしまうぞ」
腰に回された手が熱い。
公爵の近づいた顔は、気のせいでなければ楽しそうに見える。
顔が熱い。
頬に触れる公爵の黒髪が触れてはいけないものの様に感じて、仰け反ってしまう。
オルタナは反射的に片手で公爵の胸元を押し返した。
その手を公爵にいとも容易く取られて、唖然と口を開けた。
「自ら肌に触れるとは、誘っているのか?」
「ちっ違います! はっ……離してっ……」
「細い手首だ。庇護欲をそそられるな」
そう言って公爵は掴んだ手首に唇を押し当てる。
オルタナは何が起こっているのか分からないまま口が開いたままな事に気付いて、慌てて口を閉じた。
口の端に力を込めて、漠然と気を抜かない様に自分を戒める。
驚く暇があったら、状況を――。
祖母の教えをまるで呪文のように脳内で再生するが、把握できるはずもなかった。
人と触れ合う事を避けて来た。
誰とも肌を重ねた事はないし、こんな無防備な格好で誰かに腰を抱かれた事もない。
「キスの経験は?」
オルタナは怒らせるかも、とは思っていたけれど、こんなに落ち込ませるとは思っておらず、こっちが悪い様な気になってしまった。「……別に、怒ってはないけど」「だが、手を振り払ったじゃないか……」「だって、あれはヴィー様が……丸め込もうとするから……」「別にしてない。顔色を見ようと近づいただけだ」「ほ、放って置いて欲しい時だってあるでしょ? 大体ヴィー様がいつも何にも教えてくれないから……」 責めるつもりは毛頭ないのに、責める言葉が口から零れる。「他の番の事か……?」「……分かってる。いづれはそうなるって分かってるけど」「いづれはそうなる、とはどういう意味だ?」「だって、僕にはヴィー様の子供は産めない。仕方ない事だって分かってる。誰か他の番が必要だって……」「違う! そうじゃない!」「はぇっ⁉」 急に声を荒げた公爵に、オルタナは驚き過ぎて変な声が出た。「俺がお前に“すまない”と言ったのは、あの場ではそう言う話にしておいた方が良かったからだ」「……どう言う事? って言うか、何にも教えてくれないんだから、そう思ったって仕方ないでしょ⁉」「……そうだな。すまない、オーリィ。だけど、俺は言ったはずだぞ。お前が唯一の番だと」「そ、れは……そう、だけど……」「俺はずっと不思議だった。ケルメスがお前の母君を愛妾として囲っていたのなら、妖精の様に美しいと噂のある母君によく似たお前に、もっと早く手を付けても良いはずだ。だが、ドーラ殿が捕らえられ十年経っても、ケルメスはお前を放置していた」「あぁ……うん、そう言われてみればそうだね」「それはお前が発情しないからだ」「え……?」「原初のΩの血を引いていても、発情していなければ利用価値がない」「なるほど……」 だが、オルタナはふと一つの疑問が湧いた。
「ちょっと籠る! 開けないでね!」「ちょ、オーリィ……」 馬車の中でも無言のまま帰って来て、公爵も様子を伺っているような雰囲気だったが、そう言い捨ててオルタナはクローゼットの中に籠城したのだ。 公爵の高そうな服が隙間なく並べてあり、あの花の様な香りが漂うその狭くて暗いクローゼットの中は、案外落ち着く場所だった。 夜会に出たままの服装で潜り込んだから、手探りで装飾品の類を外して膝を抱えて座り込み「ふぅ――……」と息を長めに吐いた。 おねだりしないといけないのに、こんな風に勢い任せに立て籠もって、最悪公爵を怒らせてしまうかもしれない。 それでも「溜息をつきたくなる事」くらいは分かって欲しかった。 何でもかんでも自分で思い描いた通りに事を進めてしまう公爵に、隣を歩かせて欲しいなんて、我儘なのだろうか。 庇護されるだけの豚――そう言ったナタリスの言葉がチラついた。 モリガン大佐やラカンの増強剤の事も公爵と話さなければならない。 その上、大公妃とのネロ区視察は三日後だ。 こんな所で膝を抱えている暇はない。 けれど、オルタナにはこの儘ならない感情を整理する時間が必要だった。 そうでなければまた、一人で森へ飛び出してしまいたくなる。 そうして一人薄暗いクローゼットの中で延々と思考を巡らせている内に、いつの間にか落ちていたらしい。 扉の外は物音ひとつしないし、人の気配も感じられない。 公爵は流石に諦めて、放置する事にしたのだろう。「着替えないとな……」 そう独り言を呟いて恐る恐るクローゼットの扉を開けてみる。 居ないと分かっていても、用心するに越したことは無い。 ほんの僅か扉を開けた。 その隙間から見えたのは、クローゼットの向かいにある大きな寝台の縁に腰かけた公爵だった。 居るんじゃん――――!!
「それなら、私が。最近、ラカンの元密偵に伝手が出来たので」 そう言ったのはミレーだった。 確かに、アラベルなら用意出来そうだ。「でもミレー、親父さん達は今、別の仕事に取り掛かってるんでしょ?」「……まぁ、そこは何とかします」「そう……」 そのミレーのやり取りを見て、王妃は頬を膨らませてこう言った。「ミレー中尉ばっかりズルいわ」「え?」「オルティは私の友達なのに、私の事は愛称でも呼んでくれないし、未だに敬語なのよ? ミレー中尉だけズルい!」「いやぁ……ラチア様、それは……」 オルタナはその王妃の拗ねっぷりに、これが高等技術“スネル”か……と感心した。 とは言え、王妃相手に愛称呼びはスネルより更にハードルが高い。「二人だけの時は良いでしょ? それもダメ?」「うぇっ⁉」「だって私、オルティ以外に友達いないんだもん」「……」 それはズルいぞ、王妃様。 困ってミレーの方を見遣ると、こうなると分かっていた様な顔でウインクされた。「……じゃあ、二人の時だけ」「本当っ? 約束よ?」「わ、分かった……です」「んもぅっ!」「き、急には無理……だから、許して……ラ、ラティ」「ふふ、良いわ。ありがと、オルティ」 嬉しそうに笑う王妃は、まるでただの十二歳の少女に見える。 そう見えてしまうと、焦げ茶色の良く似合っていると思っていた美しいドレスも、聊か背伸びした様に見えて来るから不思議だ。 この時オルタナは、あれだけ「得策じゃない」と言われていたのに、無駄な意地を張る事になるとは露知らず、煌びやかな夜が更けて行った。◇◇◇ オルタ
あからさまに焦った顔をして見せたノエルに、王妃は満面の笑みを見せた。「ルアド・モリガンの状況を知りたいわ」「えぇ――……それは守秘義務がありまして……」「そうね、少佐が王妃に話したとしたら処罰を受けるでしょうけど……ミレー中尉との会話を偶然何者かが聞いてしまったのなら、出所不詳で誤魔化せる」「えぇ⁉ まぁ、良いですけど」 いいんかい。 オルタナは危うくそう突っ込みそうになった。「おい、ミレー。ルアドの様子はやはりおかしいらしいぞ」 急に始まった寸劇もどきに、ミレーは慌てて答える。「お、おかしいって?」「痛みも感じてない上、正気を保っているとは到底思えないらしい」「特警預かりになったのに、正気を保っている方がおかしいでしょ」「薬物中毒じゃないかと、誰かが言ってた様な……」「えぇ⁉ 何の?」「あー、えー、それが分からないって話らしい」「こ、困ったわねぇ……」 ノエルとミレーは凄くカッコいいのに、酷い茶番だ。 余りの酷さに王妃と顔を見合わせて噴き出した。「「ぷっ……」」 ノエルとミレーは二人共恥ずかしそうに顔を背けている。「なるほど。そう言う事でしたか」「ラチア様? そう言う事、とは?」「ずっと不思議だったの。ルアドが口を割らない事もそうだけど、あの体格が異様で……」「体格? モリガン大佐は昔から結構大きかったですけど……」「でも、モリガン伯爵は&alph
「えぇ?」「自分を殺して大人の事情に付き合ってたら、ロクでもない事になるわ」「ロクでもない事……」「あ、その……オルティは私よりお兄さんで、子供じゃないかもしれないけれど……大体高位貴族の大人って自分の思い通りに事が運ぶと思ってる」「はぁ……」 オルタナは王妃の“お兄さん”という言葉に驚いた。 年齢はともかく同等かそれ以下だと見下しても良い権力をお持ちなのに。「子供は何でも自分達の言う事を聞くと思っている」「まぁ、そうですね。逆らえる気もしませんけど……」「それに、ヴィンス相手じゃ喧嘩するのは分が悪いわ」「ラチア様は王陛下と喧嘩なさるのですか?」「喧嘩……と言うか、一方的に私が怒っている事が多いわね」「でも、仲良さそうに見えますよ」「うふ、愛してるもの」「おぉ……」 堂々とそう言える王妃が、キラカの灯でより幻想的に美しく見える。 オルタナは自分のグラグラと動く弱い心を確める様に、胸に手を当てた。 公爵が子を産める番を持てと言われるのは、至極当然の事。 でもそれに覚悟が出来ていなかったのは、公爵の“唯一の番”という言葉を安易に丸飲みしていた自分のせいだ。 これから運命の番として、誰か他のΩの子を抱く公爵を寛容に許し、サリバン公爵を支える人生が待っている。 でも、それが嫌だと言って離れていく事も出来ない。 苦しくても、離れるなんて無理だ。 だって、愛しているもの。「我儘な王妃に手を焼いている王様。そう言う筋書きなの」「筋書き……?」「レイって本当はもっと優しい人。でも、優しいだけじゃ国王は務まらないでしょ。だから私が我儘を言って、それを仕方なく許すって言う茶番?」「国政が茶番?」「私が矢面に立つことでレイを守れるなら、それで良い。私はもうすぐ十三歳になるけれど、子供だと侮る者は
大公妃に加えて王妃まで一緒に行くとなれば、危険度が釣り上がる。 どんなに気が強く凛としている王妃でも、まだ十二の少女で、Ωだ。 もしも、何か大事になる様な事があれば、自分一人では対処出来ない。 あぁ、でも、護衛はついて来るはず――。 そのオルタナの心境を聞いていたかのように、ケルメスが口を挟む。「王妃様。大聖堂には抑制剤関連の機密も多くございます。銀の君の視察には、こちらで護衛を用意します故、従者殿はお連れにならぬよう」「分かっていますとも」 とんでもない事になった。 大公妃と自分だけなら自分の身をどうにか守れれば良い。 教会が大金を落とす大公妃をどうこうする確率は無いに等しいからだ。 それに、今回の夜会は大聖堂への潜入計画の一旦を担っている。 その潜入計画の陽動の為にオルタナがケルメスを誑し込み、魔女ドーラに会わせて欲しいと嘆願し、表から堂々と入る計画だった。 そこに助っ人である大公妃が現れ、運良く視察の話が出た為に便乗する事が出来ただけの事。 いつもならこんな時に我先に口を出して来そうなウケイの姿が見当たらない。 先生、居ないのかよ! 出番でしょ! オルタナは胸中で一人突っ込みしながら、思案する。 王妃も潜入計画を知っているはず。 何故、そんな危険を冒して正面から行こうと言うのか。 オルタナはまだ良く理解出来ないまま、場の状況を見守る事しか出来ない。 大公妃は閉じていた扇子を広げて、口元に翳し「私はそろそろ」と休みたい素振りを見せ、フロアの中央から退席した。「せっかくの王陛下のお誕生祭です。気を取り直して、楽しみましょう」 振り返った王妃がそう言って、こちらを見る。 後ろに控えていたミレーから「ダンスにお誘いして下さい」と小声で囁かれ、危うく「はぁ?」と返
正面玄関から二階へ上がる階段の上から一部始終を見ていたナタリスでさえ、反論する様子はない。 一番混乱しているのはオルタナ自身だった。「あのっ……ヴィー様?」「オーリィ、お前に頼んだ事を覚えているな?」「覚えてる……けど、運命の番って……」 運命の番だと公表してしまえばそれは婚姻を意味する。 それはダメだ。 公爵の血筋を残せない自分では、本物にはなれない。「契約って言った……」「お前が唯一の番だと言
「うん……」 いつも毅然としていて隙のない公爵が、何やら頼りなさ気に見える。 いつも周りを圧倒する存在感を放ち、近寄り難い程のこの人が、今ここでだけは頼りない少年の様に見えた。 ポツリポツリと話し始めた公爵の表情を、オルタナは見逃さない様にしっかりと見つめる。「まだ十三だったその日、俺は体調が優れず寝台に押し込まれていてな」 体調の悪い第二王子を見舞いに来た前王妃と護衛で着いて来たオブライアンは暫く談話した後、部屋を去って行った。 だが、そのすぐ
「これだけは知っていて欲しい。ドーラはお前を守る為なら何でもすると言っていた。あんな美しい女が顔や声を潰して老女のフリをしてまで守りたかったのは、お前さんなんだよ。血が繋がっていなくても、ドーラにとってオル坊が宝なのは代わりねぇんだ」「親父さん……」「モリガンに辿り着いた時、俺は四人で暮らそうと言ったんだ。だけど、何かあった時に他人の方が良い、と言ってドーラはオル坊と二人で暮らす事を選んだ。結果的にドーラの言う通りになった。もし、一緒に暮らしていたら、ドーラと一緒に俺も囚われる羽目になったかも知れねぇからな」「……うん」
「夜葡萄の研究が関係していると?」 ウケイの視線に、公爵は頷く。「義父は夫人が亡くなる少し前から、夜葡萄の研究をしていた。その原初のΩと呼ばれる者が夜葡萄と関係しているなら、前公爵に罪を着せる為の工作だったとも考えられる。ウケイ殿なら思い当たる節があるのでは?」「……そうですね。夜葡萄とは繊細かつ栽培に当たっての条件が非常に難しい植物です。まず環境が極寒でなければなりませんし、夜の国の様に陽の差さない森の中でなければ育ちません。そしてもう一つ、絶対に欠かせないのが原初のΩの血です」